人を責めたくて仕方のない人々
たまに検索とかしててYahoo質問箱とか見ると、
「それ回答じゃないじゃん」
って突っ込みを入れたくなるような人がいる。
だいたいが、質問する人を責める内容で、
「質問する前にこうこうこういう心構えがたりなくてどうこう」
とか、説教をしている。
ああいう人ってきっと、自分のリアル生活に不満ばっかで誰か人のことを責めたくてしょうがないんだろうなって思う。
ほっときゃいーじゃん。。。
みたいのにもいちいち噛み付いて。
そういう人に限って、リアル生活では誰にも言い返せず、不満を溜めて生きているんじゃないかなーと想像してしまう。
YouTubeで動画観てたら、アメリカだか香港だか(幅広いな)の高校生が自分が歌を歌ってる動画をアップしてて、すごくうまかった。
わーすごい、やっぱ海外の人見てるとすごい人いるなーって思った。
そんで、コメント欄みたら、英語で
「オマエきもい」
「うせろ」
みたいなコメントが満載で、こういうのって世界共通なんだなーwと思いながら見てた。
人のことを責めたくてしょうがない人が世の中にはたくさんいる。
わたしも人並みにネット見たりブログ見たりするんだけど、無意味に責められたり、誹謗中傷されたりしてブログをやめちゃった人を何人か見た。
すごく面白くて「早く次の記事みてみたいな」って思ってるブログに限って、やっぱり見てる人も多いし、変なこと言ってきたりする人が多くて、そういうのうんざりって人はやめちゃう。
ブログのコメント欄とか、どっかの掲示板で人の悪口言う人って、人の幸せとか豊かさ(心でも金銭面でも)を認めることができない、心が貧しくて飢えている人。
自分が飢えているから、たくさんおいしいご飯を食べている人がうらやましくって、自分もほんとはそうなりたいのになれなくて、辛くて、ねじまがった行動に出ることしかできない哀れな人。
自分の身分を明かして人にものを言えない人。
実生活での鬱屈を吐き出せる場所が、ネットにしかないんだろうなって思う。
なんでそう思うかっていうと、自分もそういうときあったから。
わたしも人のことを責められるような人間ではぜんぜんなくて、ネットで誹謗中傷したことはないけど、鬱屈した気分を抱えて、人との関係がうまくいかないときがあった。
中学生のとき。
わたしは、中学生のとき、成績のことやその他もろもろのことで、家族とうまく行っていなかった。
学校にも、心の底から信頼できる友達はいなかった。友達はたくさんいたけど。
中学生活ってサバイバルで、油断するとハブられたりして、優位に立ったかと思うとそうでなくなったり、毎日生きるのにピリピリしてた。
部活には先輩がいて、変なことしたら目つけられる。
部活の朝練行って、学校の授業受けて、部活行って、終わったら塾へ行く。
塾のあと22時くらいにご飯食べて、学校の宿題とか塾の宿題とか学校の支度をして寝る。
朝はまた早く起きて朝練。
休日も部活とか練習試合とか、塾の模試とかがある。
定期テストもやってくる。
そのほかにもイベントごとがあったりとか。
毎日いろんな出来事がありつつも、流れ作業のように生きていて、家族とはうまくいかなくて、クラスでも心落ち着かなくて。
安らげる場所なんてなかったな、と今振り返って思う。
だから、わたしは毎日イライラしていたと思う。
毎日だから、
「今日イライラするな」
とかじゃなく、自分がイライラしていることにも気づいてなかったと思う。
そういうわたしができたのは、自分の心の不満を気に入らないやつにぶつけるっていう、最低のことだけだった。
ハブられたらハブり返したりしていた。
気に入らないことがあったら、冷たくしたり平気でした。友達なのに。
わたしは、自分が正しいって思ってた。
人間関係なんて弱肉強食なんだよ、くらい思ってた。
でも、レベルが低い人間だった。
よく、
「いじめられる人間よりいじめる人間のがみっともない」
っていうけど、あれほんと。
いじめられる人間ていうのは、いじめてるやつらより、ずっと人間性が高いと思う。
わたしは、いじめをしてたわけじゃないけど、
「自分の中にある鬱憤を他人を使って晴らした」
という点ではいじめと同じことをしていたと思う。
自分の中で辛いことや悲しいことや不満を消化することができなくて、他人に当たっていた。
そういうことをするのは、人間性が未熟な証拠。
いやなことも自分の中で消化して、周りの人をいたわるのが、成熟した人間。
自分がもしあの頃、もっと成熟した人間であったならば、周りの人と、もっと本物の人間関係を築けていたんじゃないか、と今でも思う。
後悔しても仕方ないから、悔やんだりはしないけど。
わたしの友達で、すごく素敵な人がいる。
落ち着いていて、人のこと傷つけるようなこと絶対言わない人。
リーダーシップを発揮したりはしないけど、さりげなくサポートしたり、困っているときには絶対に助けてくれる人。
周りの人からも好かれる人。
彼女とはいろんなこと話した。
子供の頃の記憶から、恥ずかしくて他の人には言えないようなことまで。
ある日、彼女が
「自分がいじめをしてたこと」
を話してくれた。
彼女は子供の頃から大柄で、目だってたから、いつも目立つグループにいたんだって。
そんで小学生のとき、おとなしい女の子をいじめてて、その子が学校に来れなくなって。
その子の親が
「お願いだからいじめをやめてください」
って家までお願いに来たって。
でも、彼女はつっぱねたって。
彼女はそのことを今でも思い出して後悔するって言う。
今、大人になってみて、あの頃あんなことをしたことが忘れられないって恥じている。
でも、わたしはその話を聞いて、
「そんなことするなんて最低だね」
とは思わなかった。
自分も同じようなことしてたからって言うんじゃなくて。
彼女が、心から自分の過去の過ちを恥じてる様子が伝わってきたから。
わたしにだって、恥ずかしい過去、たくさんあるもん。
過ち、たくさん犯してきた。
人のこともたくさん傷つけてきた。
今でも、知らないうちに周りの人を傷つけてる部分もきっとあるだろうと思うし。
彼女はその話をするとき、迷ったと思う。
すごく恥ずかしい記憶だと思うから。
人に言ったら軽蔑されかねないことだから。
わたしだって、この記事で「中学生のとき人に当たってました」って書くの、すごい勇気がいった。
だって、恥ずかしいしみっともないことだから。
自分の恥部だから。
自分で自分がやったことを「恥ずかしい、過ち。なんであんなことしちゃったんだろう」って思ってる人に
「あなた、それ間違ってますから!」
って言うのって、なんの助けにもならない。
ネットで人を叩いてる人に、わたしはそういう「言っても解決しないことを言う」っていう不条理を感じて、むかついてしまう。
事情とか何も知らずに、人のこと責めるのって、他人を使って鬱憤を晴らしてる「いじめ」と一緒じゃん。
と思う。
誰かがなにかの話をしたときに、
「なんでそんなことするの?」
じゃなくて、
「分かるよ。そういう時、あるよ」
って言える人になりたい。
それは、自分のためでもあるから。
わたしは、あの悲惨な中学時代から年月を経て、いろんな経験をしてきた。
(わたしだけじゃなくて、年月経るとみんながいろんな経験をするんだけども)
その結果、他人に対して
「分かるよ、そういうこともあるよね」
って言うことができるようになってきた。
(まだまだかもしれないけど)
それは、わたしにとってとても大きいことで、他人に対して
「分かるよ、そういうこともあるよね」
って言うことって、自分が幸せに生きる術のひとつだと感じる。
他人を受け入れることって、自分を受け入れることでもあるのだなーって思う。
楽に生きられるようになる、っていうか。
逆で、自分を受け入れることができるようになったから、他人もそのまま受け入れられるようになったのかもしれないけど。
(こういう表現で自分の気持ちが正しく表せているのか、よく分からないけど)
自分にはそんなこと起きないだろうってことが起きたりするのが人生だから、わたしはどんな経験や人生にも、
「そんなこともあるよ!」
って言いたい。